学園ニュース
学園ニュース 2023年1月号(269号)
■◆■学校法人千葉明徳学園 理事長 福中 儀明■◆■
令和5年・2023年が始まりました。理事長より新年のご挨拶を申し上げます。
新年となると、色々な分野のトップが一年の抱負を語ります。政界では政治・経済情勢を語り、財界では景気の予測をします。しかし教育界は違います。人を育て、未来を作る仕事ですから語るのはこの一年だけではなく、未来にわたるものでなくてはなりません。
教育の未来とAI の発達
教育の未来を考えたとき、私が憂慮するのはAI の発達とそれについていけない人の出現です。AI が発達し、AI が働くことによって人の仕事の多くが代替されます。なくなる仕事があり、新しく生まれる仕事があります。少子化が進んでもこどもが生まれる限りは教育・保育の仕事すなわち我々の仕事はなくならないでしょう。しかし他の多くの仕事がなくなり、新しく生まれた仕事に就けない人は失業することになります。AI の発達により打撃をこうむる人々を、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはuseless classと表現しています。useless class――これを「役立たず階級」などと翻訳しているようですが、それはあまりに不愉快ですからここでは英語のままuseless class と言うことにします。
Useless class の出現
useless classは主として途上国で生まれるでしょうが、日本で生まれないとは言えません。おそらく数百万人を超える日本人が働けず、社会保障の対象になるのではないでしょうか。現在の日本で生活保護を受けている人は200万人を超えています。これが500万人になったらどうでしょう。国家財政破綻の危機に陥るでしょう。そんな社会に学生・生徒を送り出すわけにはいきません。卒業生はこれから生まれる新しい、おそらく高い学力を必要とする仕事についていただきたい。そしてその仕事はSTEMの能力が求められるでしょう。ステムすなわち、science,technology,engineering,mathematicsです。
STEM教育の必要
私は間もなく後期高齢者と言われることになる団塊の世代の人間ですから、高校でサイエンスはたっぷりやりました。物理・化学・生物・地学、全部やりました。数学もⅠⅡⅢと全部やりました。大学では教養課程で理科も数学もやりました。昔は文系理系の区別なくすべての大学生が一般教養で自然科学を履修したのです。それが今はない。そして大学生の学力が落ちたと騒がれるようになって20年以上がたちました。useless classを作らないためにはどうしたらよいのか。くりかえしますがSTEMをしっかりやることです。高校でSTEMを勉強させ、たぶん時間が足りないだろうから大学でもやる。これしかありません。
AI に負ける高校生
ところが、高度なSTEMの授業を受け付けられない生徒がすでに激増しています。useless classの提唱者ノア・ハラリの本が出る直前(2018年2月)に「AI 対 教科書が読めない子どもたち」という本が出ています。新井紀子さんという数学者が書いた本です。新井さんはAI に大学入試問題を解かせるという実験をしており、それによると東大入試では合格点は取れないが、MARCHレベルの大学では合格点が取れた、ということです。AI に負けた高校生は問題文を読み取ることができていない、教科書が読めない、読解力がない、というのです。したがって学力向上のためにはまず読解力・論理的思考力の養成、次にSTEM、ということになるでしょう。先は長い――でも急がなければなりません。途上国が追い上げてきています。例えばインド。インドの大学卒業者は年間200万人、うち半分の100万人が理工系卒業です。日本は50万人中2割の10万人です。インドに大きく負けています。だからインド中央部のデカン高原に世界のハイテク産業情報産業が集まり研究所を作り、インドの若者が多数就職しているのです。このままいけばuseless classがインドより増えることになるかもしれない。私はそれを恐れています。
アメリカのSTEM教育
STEMはアメリカ発ですからアメリカの大学ではどんな教科書を使っているのか、興味を持って調べてみました。するとessential cell biology 細胞生物学入門 という本が生物の一般教養の教科書として使われていることが分かりました。早速訳本を買って読んでみました。A4版で700ページ、電話帳のような教科書です。全ページカラーで懇切丁寧に書いてあり、レベルは高いけれどわかりやすく面白い、優れた教科書です。もう一冊、evolution (進化)という教科書を今度は原書で買いました。これも700ページ、オールカラーの電話帳です。英語を読むのは面倒だからぱらぱらと写真と図と表を見ただけですが、これもまた面白い。見るだけで進化の理論が理解できた気になります。優れた教科書です。明らかにSTEM教育についてはアメリカが日本の先を行っています。日本もアメリカに追いつき、インドには追い越されないようにしていただきたい。そしてuseless classが生まれないような社会にしていただきたい。――というのは文部大臣の言うべきことですが言ってくれないので私が代わりに言いました。
将来の大学の学部構成
ここで私の予想する将来の大学の学部構成を書いておきます。AI が発達した社会の大学は 医療系・理工系・芸術系・データサイエンス系の4系統になるでしょう。これは文系の学問の軽視ではなく発展です。「データサイエンス」は聞きなれない言葉ですが、国立大学を含むいくつかの大学で新設されるようになりました。やがて法・経・経営・商・社会学などが吸収されることになるでしょう。文学は創作ですから芸術系に吸収されます。そしてこの再編・統合についていけない大学はつぶれることになるでしょう。ただし、教育の仕事はAI には任せられない仕事として残ります。そして学校教育以外に社会教育が広がり、人口減少の中でも教員の需要はむしろ増加すると予想します。
100周年について
さて、本学園は2025年に創立100周年を迎えます。内容は企画書(次号掲載予定)の通りですが、第二グラウンド開発の理念について少し補足しておきます。「AI が発達し、仕事を失う人が出る。幸運な人は仕事についているが労働時間は減り週休3日・4日になるかもしれない。空いた時間をどう過ごすか、知的レベルの低い人はパチンコやその他のギャンブルで時間をつぶす。知的レベルの高い人はスポ―ツ・芸術・あるいは二つめか三つ目の大学に行くか、よりレベルの高いアカデミックな活動をするだろう。これが社会教育だ。」
これがホリスティック教育の意味になります。ここまで考えている学校はほかにないという自信を持っています。おおいなる夢と希望をもって100周年を迎えましょう。
皆さんのご支援をお願い申し上げて2023年の始まりに当たっての理事長挨拶といたします。
【短大】
■◆■千葉明徳短期大学 学長 由田 新■◆■
昨年も残念ながらコロナ禍に悩まされた1年でしたが、少しずつできることが増えてきた1年でもありました。
授業は、ほとんど対面で行うことができました。宿泊を伴う活動も中止していましたが、国内に関しては「フィールドワーク」として岩手の遠野、富山の南砺市利賀村へ、ゼミでは熊本の水俣へ出かけたグループもありました。学園祭は8月に予定していましたが、延期。11月後半に附属幼稚園の子どもたちを中心に招いて小規模ながらも保育の養成校らしい内容で実施できました。授業の中でも、外部講師に来ていただいたり、フィールドに出たりと動きもでてきました。実習に関しては、残念ながら、演習対応となるケースもありました、以前に比べると状況は戻りつつあります。授業に関しては、だいぶ落ち着いてきた1年間でありました。
しかし、一方で、サークル活動等はなかなか動き出しませんでした。仲間を集めてサークルを作ることができる旨を伝えましたが、なかなか動きがうまれませんでした。高校時代も十分に活動できなかった学生たちです。授業が回ることに追われましたが、こちらの面にも目を向けていく必要性を感じました。
さて、新しい年を迎えました。
新年度へ向けては、ただ授業を受けて帰るというのではなく、授業・学校生活ともに「学校が楽しい」と思えるような仕掛けを考えていきたいと思います。授業の学びだけでなく、学生生活を楽しむということも大切な経験です。サークル活動をやっていいよというだけでは動き出せない現状があります。全国の学生の調査でも、コロナの影響で学生たちの学びの姿勢に「受け身」が増えているというデータがあるようです。学生生活の面でも教職員側からもっと働きかけていくことを考えたいところです。学ぶことが楽しい、そして学校で何かすることが楽しいという気持ちを改めて持ってほしいと思います。
また、ICT活用へ向けて、学内のネット環境等がだいぶ整ってきました。新入学生は全員、パソコン等の電子機器をもって入学してきます。なんでもICTということではありませんが、新たに手に入れたICT環境を追加されたツールとして活用していきたいと考えます。コロナ以前にはもう戻りませんが、新しい形での「うごき」をつくっていたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
【中学校・高等学校】
■◆■千葉明徳中学校・高等学校 校長 園部 茂■◆■
皆様、新年明けましておめでとうございます。
昨年4月からの中高の状況を振り返ってみますと、コロナ禍の中にあって過去の2年間との比較では、様々な行事等を少しずつ実施出来るようになったことがたいへん嬉しいことでした。5月には、高校の遠足、中学の校外理科研修を予定通り実施出来ました。なんと、高3・中3生にとっては、本校に入学して初めての校外学習となりました。中3生は、昨年実施できなかった林間学校を6月に実施出来ました。そして、2学期が始まり第7波の収束の兆しが見えてきた中で9月3週目には、中高合同の文化祭も実施することが出来ました。3年目に入ったコロナ禍の中で、全校が本格的な文化祭は初めであり、学内には準備期間も含め生き生きとした息吹に溢れました。
以上、今年度を振り返って見ると、コロナ禍にあっても多くの学校行事をほぼ予定通り実施出来ました。改めて、生徒の学校生活における学校行事の重要性を再認識しました。今後も、千葉明徳中高は、授業とともに学校行事も大切にしながら、生徒の積極的な学びを応援していける学校でありたいと思っています。
そして、生徒募集活動でも中高ともに募集に関わる全ての行事を予定通り実施することが出来ました。一月早々には、中高ともに入試本番を迎えますが、受験生数からは、ほぼ例年通りの入学生を迎えることができそうです。
2023年度は、千葉明徳中高一貫コースも13年目、干支も一回りして開校の時の卯年に戻りました。中高共に卯にあやかり、更なる飛躍の年に出来ればと思っております。コロナ禍の厳しい学校運営は、もう少し続いていきそうですが、学園関係者の皆様方の積極的なご理解・ご支援をお願い申し上げ、年頭にあたっての挨拶といたします。
【幼稚園】
■◆■千葉明徳短期大学附属幼稚園 園長 明石 現■◆■
明けましておめでとうございます。
今なお続くコロナ禍において、ポストコロナを模索する動きはあらゆる分野で日々ヴァージョンアップを迫られています。あと少し、あと少しで、と数カ月先には日常を取り戻せるという淡い期待をもちながらも、「過去の日常」は今も過去のままの状況です。
そのような中で今を生きる子どもたちの歩む先に、何をしつらえることができるのかと思いを馳せています。
20世紀の日本の美術界に大きな足跡を残した岡本太郎(1911―1996)の著書『今日の芸術』(光文社)は閉塞感に満ちたこの時代から進歩し、新しい価値観を生み出す絶好の機会である今、私たちに改めて多くの示唆を与えてくれます。今から70年程前の1954年に書かれた本ですが、そこには、時を超え、コロナ禍の現代に当てはまることばを数多く見出すことができます。
その一部に、「義務づけられた社会生活のなかで、自発性を失い、おさえられている創造欲がなんとかして噴出しようとする。そんな気持ちはだれにもある。だが、その手段が見つからないのです。」というくだりがあります。多くの制限が社会生活を変え、それがいつのまにか当たり前のように感じられ、あきらめにも似た意識をもつ人々がいる一方で、自分を表現することに抑えきれない衝動を感じている方も多いのではないでしょうか。そして、その最たる存在が子どもたちでしょうか。我々大人にとっても新型コロナウイルス感染症が社会に与えた影響の全容は、実のところよく分からない、というのが本音でしょう。未知のウイルスに対する度重なるワクチン接種や感染対策の考え方は時間の経過とともに変容し、科学的根拠を知る一部の人々の意見とそれを知らない人々の感覚的な意見のはざまで、私たちは何を信じたらよいのか迷い、社会が二極化どころか、多極化している状況です。子どもたちの目には、この状況がどのように映っているのでしょうか。
先に述べましたように、閉塞感に満ちた時代は新たな価値観を生み出すという、いわゆるパラダイムシフトは今この時の必然なのかもしれません。岡本は前記の著書の中で新旧の芸術の在りようについて、「歴史をひもとけば、あらゆる時代に残酷な新旧の対立があり、新しいものが前の時代を否定し、打ち倒して、発展してきていることがわかります。自分の時代だけを考えていると、どうしても、ものの見方が近視眼的に、安易におちいりやすいので、どこまでも広く、深く冷静に観察すべきなのです。」と述べています。もちろん、これが芸術に限った話でないことは言うまでもありません。
また、ある課題を解決するためには、その課題に真正面から向き合うことよりも、全く違う分野・視点からその根本にある精神の葛藤や対立を穏やかに癒し、解決方法を探る方が、すんなりと新たな道筋が開けることもあると思います。湧き上がるエネルギーとしなやかな感性、その両輪をバランスよく自身の行動の源としてもち合わせることが肝要です。
創造欲や表現欲は生命力の現われであり、この混迷の時代にあって、子どもたちにとって何よりも大切なことなのかもしれません。大きな変化の年、子どもたちがあらゆる場・方法で、自然なかたちでその心の内を表現できるよう、職員一同、尽力してまいります。
皆様、本年もよろしくお願い申し上げます。
【本八幡】
■◆■明徳本八幡駅保育園 園長 丸山 敦子■◆■
コロナ禍の3年間で社会経済、人と人との関係性が大きく変わってしまっています。
いろいろな面で悩んだり、戸惑うことも増えましたが、そのたびに、一緒に考えてくれる明徳本八幡駅保育園の仲間がいます。
一人では思いつかなかったり、解決できないようなことも、「そう考えればいいんだ!」「よーし!!」と一歩踏み出すことができます。
この3年間は私たちが新しい世界の入口に立ち、「見つめなおす!」ことの大事さを示しているのではないかと前向きに捉えると、これまでの頭を切り替え、勇気を持って前へ進むこと!!未来を切り開くこと!!をしなければ・・・と思わないではいられません。
そうはいっても、焦らず、一歩ずつ確実に行こうと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
【浜野】
■◆■明徳浜野駅保育園 園長 海邉 成美■◆■
新年、明けましておめでとうございます。
この春に卒園する年長児は、3歳以上児クラスになってから、ずっとコロナ禍での生活をしてきました。保育参観や春の遠足も経験することなく、そして毎日のお迎えも玄関までという、以前の園生活では考えられなかった日々です。
今年度の夏頃から10月にかけて、数名ではありますが本園で初めての新型コロナウイルス感染症の罹患者があり、4ヶ月間コロナと隣り合わせの保育となりました。
今回のおたのしみ会で年長児は、『長縄とびで対決して、パパやママに勝つ!』という目標を立てていましたが、残念ながら全員揃っての対決は実現できず… 結果、年長児1名と担任が、おたのしみ会に参加できないという悔しい思いをすることになりました。
直前に状況が変わった中でしたが、今まで共に頑張ってきた友達や職員のことを思いやって、仲間の分も頑張ろう!と自分達で話し合う姿に年長児らしさと成長を感じました。この出来事は、子ども達にとって決してマイナスなことだけではなかったようです。
おたのしみ会から一週間ほど過ぎた頃、当日参加できなかった年長児の保護者の方に苦渋の決断で決行したことのお詫びをしながら、お子さんの家庭での様子について、お話をさせていただきました。すると「会の前日に、子どもと泣きながら話をしました。」…と。その話を聞きながら、お子さんと保護者の思いを痛いほど感じ、気がつくとふたりで泣きながら話をしていました。この時、お互いの繋がりを強く感じることができました。
実は、このおたのしみ会については、中止も視野に入れていました。年長児や担任が参加できないのであれば、秋の遠足でおたのしみ会ごっことしておこなってもいいのでは?と…。ですが、他の学年の子どもたちや保護者のおたのしみ会に対する思いも大切にしなければならない、大きく成長する機会を奪ってはいけない…と、実施を決断しました。
コロナ禍での行事実施や様々な判断…。これで良かったのか?と、常に自問自答している日々です。何が正解なのか…他に方法はなかったのか…どれだけ考えても正解はわかりません。施設長の責務とは?その重圧に押しつぶされそうになることもありますが、これが正解かもしれない…ということは、暫く時が経ってから子ども達や保護者が教えてくれています。
今回この保護者と話をする中で、それぞれの思いがこの園を中心に広がっていること、そして年長児全員がひとまわり大きく成長したことを感じることができました。本園が大切にしている『子どもを真ん中に』というコンセプトが、少しだけ実現できたエピソードとなった気がします。
まだまだ続くコロナ禍での保育ですが、子どもの最善の利益のために、明日への希望を胸に、日々努力をしていきたいと、新年を迎えるにあたり再認識するとともに、今年こそ明るいニュースでいっぱいになることを願って、年頭のご挨拶とさせていただきます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
【やちまた】
■◆■明徳やちまたこども園 園長 丹野 禧子■◆■
皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年の干支は「癸卯」。60年に一度やってくるこの年、この年はいったいどんな年になるのでしょうか。高校時代、日本史で暦にまつわる話を熱心に講義して下さる先生がいらっしゃいました。「こんな事入試に出るのかしら」と思いつつ授業を受けていたのですが、意外や意外大人になって生活の中に生きていることがあり、「へー」と思うことが沢山ありました。
「癸」とは、春の間近の冬で、種子が計ることのできるほどの大きさになり、春間近のつぼみが開花する寸前である状態を表し、「卯」は春を表し、それも夏に近い春で、草木が成長し茂ることを表す意味があるとか。五行の考えからいうと、木と水は相生で、相性が良い年。「天に水があって、天からの水が地下にある木を成長させる」皆皆が成長出来る年、すなわち「成長の年だからこそ、その先を考えてゆく年」と読み解けるとのこと。
4月、新年度を迎えると「創立9年」を迎えるやちまたこども園。本園の保育の「成果と課題」をまとめ、10周年、その先の20周年に向けた具体的な道程を見据え、「明徳を明らかにする」という学園の教育理念を幼児教育「明徳やちまたこども園」で、20周年の先々まで実践していかなければと思っています。
また言っていると思われるかもしれませんが、一つに、保育の具現化の一つである「園舎の建て替え」です。理事会の決定で5年間は行わない方針が出されましたが、その5年の期間が過ぎたらすぐに工事が始められる様に準備していきます。こども園であり、最長の保育時間が13時間の子どもがいる現実は、保育時間4時間でよかった幼稚園として建てられた園舎では、子どもの健やかな成長や生活を保障するには万全ではありません。建設から50年以上経っている園舎の痛みを「だましだまし」修理しながら新築まで準備していきたいと思います。これまでも職員に「どの様な園舎にしたいか」アンケートを取ったり、一緒に考えたりしてきましたが、これを継続し、そして子どもの生活にとって「効果的である」取り組みをしている園の見学をするなど研修にも取り組んでいきたいと思います。また、同時に「やちまたこども園の保育の方向性と具体性」を、職員全員が言葉や文章を使って園の外に向かって発信できるようになること、以上2つのことを職員全員で取り組んでいきたいと考えています。子ども達の健やかな成長と豊かな心情が育まれる園運営を目指していきたいと思います。
さて、過ぎ去ったとはいえ、昨年保育界には悲しく痛ましい事故と、腹立たしく許しがたい事件が起きました。園バスに置き去りにされた子どもの死亡事故、保育者による園児への虐待事件、そしてそれによる逮捕まで起きてしまいました。なんとも情けなく保育と言う名の庭に汚泥が投げ込まれたような怒りを感じずにはいられませんでした。亡くなったお子さんが出た園は、出欠席の確認のマニュアルは作ってあったのに機能しなかったことが子どもの命を奪ったのです。「仏作って魂入れず」の状態であったと思われます。どんなに組織化しても「ヒューマンエラー」はある物と心に刻んで、バスがあっても無くっても「子どもを預かることは命を預かる事」と言うことを肝に命じて、組織の点検、日頃の気配りを忘れないことを心に刻みたいです。もう一つ保育者による虐待事件、小突いたり、引っ張ったり暗いところにとじこめたり、どれもこれも「子どもが保育者のいうことを聞かなかった」ということが引き金になっています。自分の言いなりにならないと言って子どもを脅したり、力づくで従えることが保育の手段なのか、ほんとに情けないことです。幼く、人になるための途上であるかもしれませんが、子どもは尊厳を持つ人格であると思うのです。犯しがたい「人権」があるということです。
私事ですが妊娠して初めて胎児の「心音」を聞いた時、私の体から聞こえる私の「心音」ともう一人の「心音」私の他にもう一人、私と違う人がいると思ったことを思い出します。ここら辺から自分の保育が変わってきたように思います。「幼児主体の保育」と言いながら「私、主体」の保育だったのではと日々悩みました。悩みは今も続いています。「子どもには人権がある」ことについて保育する者は強く自覚しなければならないと考えます。「女、子供は従うもの」と言う日本の文化の中に染み付いた価値観が自分の中にもあるかもしれないと振り返るのも必要と思います。
保育の中で本当の意味で「子ども主体」の姿に変わっていけば「保育の中の虐待」はなくなっていくのではないでしょうか。保育者の「保育の質を高める学び」が大きなポイントになるのではないかと思います。
保育の質を高めていくためには、保育者の自助努力だけでなく保育者の働きをサポートしていかなかればならないことが重要であると考えます。虐待事件が起きた時、「コロナ禍で仕事が大変だった」との言い訳が聞かれました。「何でコロナを言い訳にする」と腹立たしく思いましたが、確かにあの時期保育現場は色々な意味で逼迫していました。園児や職員に次々と感染者が出て、職員は次の日園を開ける為の消毒作業をしなければならず、家には22時過ぎに帰宅という日が週に何回も続き疲労感が残りました。職員が罹患し濃厚接触者になって人手不足になれば超勤も続き気の抜けない日々が続きます。子ども達が帰った20時過ぎに、次の日、園を開けるために、保育室の壁から床、入れているものを含めたロッカー、机イス、子どものおもちゃ、小さなブロックの一つひとつすべてを、拭いたり、洗ったり、消毒庫に入れたり身体も心もくたくたな状態でした。こんな現実があったことは事実です。
このことばかりでなく、日本の保育の世界には子どもの健やかな成長を願う視点の無い(それは子どもの保育に携わる者を含んだ)基準があります。保育園、こども園は、基本、国や市町村の補助金で賄われています。その補助金の起算の基は国の設置基準にあります。0歳児3人に対して保育者1名、1歳児6名に対して保育者1名などと決まっており、各年齢の総数、保育者、栄養士、看護師などの配置などで年間の運営費が決まってきます。しかし、設置された市町村によっての格差が大きく、財政の豊かな市町村では基準を大幅に改善しています。それには、子ども達の数ばかりでなく職員の給与も含まれています。戦後の保育者は「若い女の子が3年から5年働いて結婚して仕事を辞める」という基準で人件費が算出されていますが、その根拠は今日では通用しません。経験を積み重ね専門的な視野を持つ保育者が現場には必要です。保育者の給与の低さは、世の中で言われてから久しく、「仕事はきつく、責任は重く、それなのに給料は対価になっていない」現実があります。長く勤めている保育者は、自身の子どもに高等教育を受けさせる高額なお金を支払うことが難しい現状にあります。それは、現場に長くいれば給与が上がらなくなるからです。夫婦で保育者をしていても給与は企業勤めの1.5人分ほどにしかなりません。
政府は「給与を上げる様に」と言っていいますが、福祉、保育の世界はこの恩恵にあずかることはないように感じます。7年も前に保育現場の基準を改善すると言ったままで改善は示されておらず、この構造的な問題を抜本的に改善していかなければならないと思います。これはいったい誰がどのようにどこに働きかければよいのでしょうか。
子どもの出生率が大幅に下がったことには色々な要因がありますが、保育の場の充実も大切な視点だと思います。戦後の混乱の中で進まざるを得なかった保育行政を考え直し、そこで過ごす子ども達の幸せと、そこに働く人へのあたりまえの生活の保障をしてほしいです。それが寛容に、豊かに子どもに向かう事の出来る保育者を育てていくことではないでしょうか。
忙しさと責任で押し潰されそうな現場を少しでも改善していきたい。そして今年一年、子どもの面白さや難しさを楽しみ、自分の為に、子ども達の為に学ぶことを弛まずしていきたいと思います。
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【土気】
■◆■明徳土気こども園 園長 北村 都美子■◆■
昨年、保育施設での園児に対する虐待や置き去りの報道が相次ぎました。
永くこの仕事に携わってきた人間として、やり切れない思いと何故そのようなことが起きるのか、私なりに整理してみました。どんな保育者もこの道を志した時、将来子どもにひどい事をしようと思う人はいないはずです。ですが、いざ保育の仕事についてみると、思った以上に心の寛容さと体力、知識とスキル、チームワークと、自分の力をフル稼働することを求められます。何故なら、小さくても一人ひとり意思持った人間を相手にしているのが、保育の営みだからです。小さいが故表現が稚拙で、泣く、言ってもワカラナイ!じっとしていない等、大人を困らせると思える行動をとるのが子どもです。
例えば、給食時間に泣き止まない食べない子がいたとします。1歳児の保育室で珍しい光景ではありません。1人でその子以外の5人の子の食事を食べさせる必要があり(まだ誤飲の可能性もある年齢で目は離せません)食べさせる以外にも汁を溢せば着替えさせ、床を拭く、先に食べ終わった子もいる。この状況の中1人の食べない子にだけ関わっている訳にはいきません。何時までも泣いて食べない子がいたら「早く泣き止ませなければ困る」「わがままを言っていないで泣き止んで」との思いから感情的な対応に傾く(それを躾といってしまう)当然その子は、保育者を困らせる子・困った子となります。
そんな時それぞれの現場で、子どもへの人権意識をきちんと持って臨み、子どもは意思を持った一人の人間であるとして保育に当たっていれば、このようなことにはなりません。食べない泣き止まない行動を、その子の気持ちの表現・意思として、何を訴えて泣いているのか読みとろうと聴こうとすると、「その前まで乗っていたコンビカーにもっと乗っていたかったの」「エプロンを自分で持って来たかったの」と聞いたり想像したりと、年齢の発達段階を鑑みて理由が判り子どもも納得し先が見えてきます。その場合同僚が、その保育者の行動に意味があることを、共有しているかが鍵です。チームで助け合える関係があり、何より園として子どもの人権を大事にすることを基本にして、保育を組み立てるかが問われます。
しかしながら、保育の於かれた社会的背景を見ると、幼い命に係わる仕事であるにも関わらず、待遇に見られる社会的評価の低さ、国の定めた配置基準は1歳児6:1です。加えて長時間保育(保育標準時間の子どもは11時間、職員の勤務時間より長く子どもがいる状況)もあり、記録や保育準備・環境整備(コロナ禍での消毒これまで以上に)の時間はどこにあるのでしょうか。これでは質の向上の為の研修に出せない園があるのも納得できます。更に地域への子育て支援・保護者支援と現場に求められることは多くなり、現場は疲弊している状況です。
国は保育の質の向上を謳いながら、実際の施策は真逆の待機児対策を優先して量を増やし、質の担保できない保育現場を増やした結果ともいえるでしょう。保育士として高潔な志を持って仕事に就いたけれど、疲弊してこの職を離れて行った保育者が多いことは、深刻な保育士不足が物語っていると想像するところです。
日本のフレーベルとリスペクトされている倉橋惣三は、その著書「育ての心」の中で「人間を人間へ教育しつつあるということは、我等の一日一刻も忘れてはならないことである」と教えています。子ども家庭庁が新しく創設されると聞きました。どの保育現場も、倉橋の教えを実践し、子どもの人権を守れる環境となることを訴えなければと思う今です。
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【そでにの】
■◆■明徳そでにの保育園 園長 大塚 朋子■◆■
新年明けましておめでとうございます。
明徳そでにの保育園は、今年で11年目を迎えました。前身は昭和48年公立からのスタートですが、初代の園長が園庭に実のなる木をたくさん植樹し、現在はその木々が大きく育ち、明徳そでにの保育園の自然豊かな園庭へと引き継がれています。八重桜、胡桃、ざくろ、夏みかん、柿、マスカット、梅、山桃、銀杏 etc
正門をくぐると巨木になった榎木が中庭を日陰にし、夏は子どもたちの遊びの拠点となっています。いろいろな実が四季を感じさせてくれ、子どもたちの発見や遊びの具材となっています。収穫した実は生で食したり、子どもたちとジュース作りをして飲んだりと工夫しながら体験や経験へと繋げています。
現在、私の大役は庭の畑で四季を通じて子どもたちと一緒に野菜作りをする事です。そでにのに来てから子どもと一緒に初めての体験をしながら学んでいます。担任は日々の保育が忙しいので腐葉土作りは用務員と行い、土作りからは季節ごとに担任と相談し、担任は子どもと話し合い、子どもがどうかかわって体験していくのかを決めています。最近は、土作りも子どもと一緒にしていますが畑の中から出てくるミミズや幼虫に大喜びの子どもたち。脱線しながらもうね作りをして後日、種や苗植えをします。その後のフォローは私の役目となりますが担任はこの体験をどう子どもたちの育ちに結びつけるのか環境設定やクラスの話し合いで栽培を通して興味や関心が深まるように導いています。収穫後はいくつ採れたか数えたり、絵に描いたり、その場で料理過程を見て食します。その後は栄養士も加わり子どもの食べたいメニュー作りやクッキングへと繋げていきます。1つの遊びと捉えたこの経験が食育や自然に触れる豊かな感性の育成となっています。
また保育園の木々や植物に色々な虫たちもやってきます。虫の大好きな子どもたちは、捕まえては名前や生態を図鑑で調べたり、飼って幼虫から成虫になる過程を観察したりしています。現在は、自分で遊びが見つけられない子どもが増えています。明徳そでにの保育園の自然に恵まれた豊かな環境を存分に生かし、乳幼児期だからこそ出来るいろいろな発見や体験を大切にこれからも職員みんなでそでにのの子どもたちの幸せの実現のために努力してまいりたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。