姉妹校 [ネパール]

2011年 訪問 レポート

ネパール姉妹校訪問2011  明徳高校芸術科  高橋孝夫

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ネパールガンジで足止め ジュムラから歩いて4時間  ▲top

 日本からネパール・ディリチョール村までは本当に遠い。成田~バンコク~カトマンズ~ネパールガンジ~ジュムラ~そこから徒歩約4時間かる。4回飛行機に乗らないと村に到達できない姉妹校って実はネパールではなく、南米アマゾンのどこかの奥地ではないかと思ってしまう。
 雨期が完全に終わってないので雨が降ると、ネパールガンジ(以後ガンジ)からジュムラ行きが飛ばず、飛ぶまで2日間ガンジの空港で足止めを余儀なくされた。いつ飛ぶかも知れないのでずっと待機、待機、待機の連続だ。しかもガンジはネパール南部の町で署くて湿気がある。空港はクーラーもない。外にしストランらしきものがあるにはあるが、もちろん冷房はない。だからガンジの2日目にジュムラヘ飛ぴますと返事を貰った時の嬉しさは忘れられない。何故ならあと1日日程が延ぴるとカトマンズに戻らなくてはならなかったからだ。去年もここから先に進むことが出来ず、カトマンズに戻っていたのだ。
 向かうメンバーは理事長(後に隊長と命名)築地先生(明徳中学校技術担当・画家)佐藤君(築地先生の教え子で現代美術を字ぶ27歳)北村先生(明徳土気保育園保育士)北村先生の愛娘、葵さん(明治大学山岳部21歳)ポビタさん(ネパール語通訳)と高橋(なぜか美術関係が多い)のメンバー7人である。
 ガンジまで来ると大体メンバーの中で結束感が出来ていて、私達が操縦できる訳ではないのだが、何が何でも飛ぶぞという意思がみんなにみなぎっていた。はるばる日本からやってきてオメオメ引き返すわけにはいかない。ガンジからジュムラまでは大きな山をふたつ超えなければならない。山といってもヒマラヤ山系である。機体は18人程度しか乗れないプロペラ機で私は一番前の席に座った。操縦席が丸見えでパイロットはジーパン姿。腕に彫り込まれた刺青が妙に生々しい。去年の夏、航路は違うがルクラ行きプロペラ機が落ちて日本人1人を含む14人が亡くなっているのだが‥…。
 ほんとにこんな古くさいプロペラ機で大丈夫か?と本気で思った。
 しかし機体は蝶が舞うようにふわりとヒマラヤの上を飛んだ。眼下に見えるのは青々しい森と河と田園だ。他には民家も見えない。後で聞いた話だが、そのとき築地先生も前の座席にいて、機体がジュムラの滑走路を一発で捉えたとき、刺青パイロットはガッツポーズをしたらしい。さすがネパール、刺青万歳だ。刺青ごときでパイロットの尊厳を疑った私が悲しい。

ジュムラから歩いて4時間
泥土の中で住民はサンダル
で涼しく歩いていた  ▲top

 ジュムラに足を踏み入れると乾燥したさわやかな高原の風が吹いている。ガンジとはまったく違う風景が展開している。標高2300メートル。ヒマラヤにやっと来たという実感が湧く。
 しかしジュムラに着けたのはいいが、到着が遅かった。村まで車で行けるわけではなく、ここから徒歩で約4時間。ポーターに荷物は担いでもらうが、出発出来たのは3時半を過ぎていた。距離にすると約15キロほどだが、主に登り傾斜であることから夕暮れまでに着くのは絶望的だ。まあここまで来れたということでゆっくり歩を進める。ヒマラヤは山が急峻だ、屹立していると言ってもいい。ついでながら大麻草もそこら中に生えている。思わずポケットにではなく写真に収める。
 雨期のせいで遵は水たまりが多く泥土状態で歩きづらい。一本道で分かりやすいが傍を流れる河の流れは急で、しかも雨期で水かさを増している。ガレ場には朋れないように石が敷き詰められている。ふと後ろから若いネパール女性が涼しい顔で歩いてくる。サンダル履きにハンドバッグを手に持ち、軽々と私達を追い抜いていく。水たまりもわけなく見事に避けて、しかも歩くスピードは変わらない。さすがだネパール。別にヒマラヤ登山をしているわけではないので、かれらにとってこの辺は普通にサンダルであることを悟った。かたや新調したばかりの私の登山靴はもう泥土でしどろもどろだ。
 明日はジュムラで祭りがあるということで、村から歩いて下山してくる村人が多い。多くの村人と行き違った。その中でピカイチだったのは、雨で道路が寸断されているのにも関わらず、バイクで音楽を大音量で流しながら後ろに可愛い少女を乗せて下ってくる青年と出会った。断っておくがここは山道だ。しかも所々石が崩れて、まことに通りにくい。そんな中少女を乗せて、音楽を流しながらバイクで降りてくるネパールの青年。やっぱりネパール、あっぱれだ。  

着いたら姉妹校は休校だった  ▲top
 

 ディリチョール村の宿泊所に着いたのは昨夜の8時ころだっただろうか。完全に闇に包まれた中で、懐中電灯を照らし、泥土の海を悪戦苦闘してようやく研修所に着いた。到着しても電気は通じてないので、夕飯を済ませると早々に寝袋に転がりこんだ。
 翌朝、宿泊所の外に出て初めて自分がどんなところに立っているかが分かった。思わず「絶景!」と叫んでしまった。峻険な山々が雲海の上に屹立している。何か身の引きしまる荘厳な風景だ。日本の富士山はどこか優美な曲線をしているが、ここのは稜線が短く、山々が峻厳なのだ。富士山が優美で女性的なら例えると弥勒菩薩だ。でもここの山並みは屹立しているだけに男性的で荒々しい、巨大な怒りの仏像ではないか?。厳格で近づきがたい山並みが永遠に続いている。飛行機を4回乗り継いだ意味がここで初めて分かった。
 ではさっそくここから歩いて30分の姉妹校リンモクシャ校に行こうと思ったが、今日はお祭りのために休校だという。出鼻をくだかれてしまった。そうなのだ今はお祭りシーズン。こちらが甘かった。そういえば昨日多くの村人はジュムラのお祭りで下山していたのではないか。ネパールは太陰暦でお祭りなどの休日を決めるので日本では予想が出来ない。ということで私達は日がな一日優雅な洗濯日和となり、隊長は目の前の3800メートルの山に単独行にチャレンジした。この頃私達も完全にゆったりと流れるネパール時閻に慣れていた。考えてみると日本から姉妹校に出会うまでに成田から5日を要したことになる。


ディリチョール村は
再生可能エネルギーを採用していた  ▲top

 ディリチョール村の標高は2600メートルである。言わば高地である。8月の時期だと夜は10度前後に下がる。村の住人は水はヒマラヤから流れる水を飲んでいる。我々もガンジまではミネラルウォーターだつたが、ディリチョールに来てからは買うお店など近くにはないわけで、その水を飲まざるをえない。しかし飲むことによって体調をくずしたり、下痢をするということはなかった。多少小さなごみが混じることがあったがホースの出口にハンカチを結べば閻題はなかった。ヒマラヤ水はおいしい。
 トイレも研修所に今までなかったらしいが新しくトイレがふたつ設皿されていた。ネバールのトイレは便器のそばにバケツと手楠が置いてあり、大きい方は手桶を使って左手で処理をする。インドなどに多いスタイルだ。だからトイレットペーパーは基本的に使わない(使う場合は便器に流すと詰まってしまうのでゴミ箱に捨てる)はじめはかなり抵抗があるかもしれない。されど慣れとはおそろしいもので、空気が乾燥しているからすぐに下着は乾き、これが憲外と快遍だ、と私は思う。右手で食べ、左手で処理するという両手の役割がはっきり区別されている。トイしの自然ウォシュレットを最初に発見したのは日本ではなくインドかも知れない。
 ところで村の煮炊きはかまどを使っていた。かまどは鉄またはコンクリート製が多い。かまどの最初の燃やし方を見ていたが、うまいものですぐに薪に火がついた。ディリチョールに滞在していたとき民家に呼ぱれて朝食をごちそうになったが、かまどで作る炊きたてのネパール米はほんとうにおいしい。ジャガイモもかまどの脇において焼くのだが、甘みがあってホクホクしている。食事もいろりを囲んで食べるスタイルだ。食器はかまどの隣にきれいに並べられ、土で作った貯蔵庫も清潔感があった。冷蔵庫はないが朝、畑で取ってきた野菜やジャガイモをその場で調理してその日に食べる。実にまあ合理的だ。究極の自給自足だろう。
 しかし、よくよく考えると日本でもおよそ江戸時代から昭和初期頃まで同じように薪を火に煥こし、かまどでご飯を作りいろりを囲んで食事を取っていた。そう考えるとその頃の日本の米で作ったご飯は、今より確実に美味しかったのかも知れない。
 話は違うが、ディリチョール村の屋根を見上げるとほとんどの家の屋根に小さなソーラー発電パネルが殼置されていた。これにはおどろいた。大量生産・大量消費から最も距離をおいた究極の低炭素社会のディリチョール村にソーラーパネルが……。まさに異様な風景だった。この「尭全循環型自給自足村Jであるはずなのに何故これが?
 隊長に尋ねたら2年前にはなかったという答え。ポビタさんに聞く「昔はディリチョール村も電気が通っていたのよ。でもね支配していたマオイストたちが去るときにここの発電所を破壊していったのよ」マオイストたちもむごいことをしたものだ。彼らは基本的に農民の味方だったのではないか?破壌された発電所を再び作るとなれば莫大な貫用がかかる。政府にも手当するような予算はないのだろう。仕方なく村人たちは決して安くないソーラー発電を選ぶしか選択肢はなかったのではないか。ごちそうになった民家でもソーラーパネルが付けてあり、灯りをともしてもらつたがうっすら明るいくらいで、他の電化製品を付けると、とても対応出来ないくらいのひよわな明かりだった。
 

リンモクシヤ校で温かいセレモニーを受けて授業を実施する  ▲top

 リンモクシヤ校に到着したのは10時半を過ぎていた。生徒の登校時間は10時からで、すでに朝礼が始まっていた。きれいに整列していて先生の訓示を聞いている。リンモクシヤ校には幼稚園生から高校生まで約800人くらいの生徒数であるという。しかしどう見てもその半分もいない感じだ。理由を聞くとジュムラでのお祭りからまだ帰らない生徒がいるらしい。やはり学校より祭り優先かと半分納得する。どうやら訓示していた先生が私達を紹介している。突然生徒たちの一部が列を曜れ、校庭に咲いている花を摘みはじめた。そのうち我々の前には机が用意され、先生がリンゴにお香を突き立て、いい匂いが漂い始める。そして私達一人ひとりにカタとティカが与えられた。カタはチペット式の歓迎の為の神聖なスカーフで、ティカは額につける赤い印。天の恵みの象徴であり、そして祝福を与えるという行為だ。ティカは他にヨーグルト(乳)と米をくっ付けてしまう場合があると聞いているが、生命の源をすべて額に集めてしまう行為はかなり新鮮だった。この第3の目は全知全能を表すらしい。
 朝礼が終わると生徒たちが教室に戻るが、すべての生徒が私達の前を通り過ぎて「ナマステ」の挨拶を笑顔とともに返してくる。先ほど校庭で摘んだ花を私遠の前に置いていく。なるほど合理的だ。
 朝礼が終わると生徒たちが教室に戻るが、すべての生徒が私達の前を通り過ぎて「ナマステ」の挨拶を笑顔とともに返してくる。先ほど校庭で摘んだ花を私達の前に置いていく。なるほど合理的だ。
 生徒たちの顔立ちや人種を一人ひとり確認してみた。ある生徒はアジアのモンゴロイド系、他の生徒はコーカソイド系。つまりヨーロッパ・インド系の流れの顔立ちも多い。その2つの人種を混和した顔立ちも少なくない。日本人とは遵って、多様な顔立ちが同じ学校にいりまじっている。
 この時ふと思い出した。インドではヒンズー教とイスラム教の争いが国を分けてしまった事実があるが、ネパールでのヒンズー敦とチベット密教(つまり仏教)が争うことは昔から一度もなかった。カタはチベット密敦で、ティ力はヒンズー教の儀式だ。このふたつがこの学校にも自然に融和している。お互いが共存していることに驚く。
 このセレモニーの後、職員室に行き、理事長から天体望遠鏡・ノート・色鉛筆・日本のレトルトカレーなどが寄贈された。そして我々の授業である。築地先生は高校生対象にお互いの人物デッサン、北村先生は幼稚園対象の折り紙教室、佐藤君は校庭でスクラッチ体操、私はロケットのデザインの後に、フィルムケースを使ってミニロケット実験を実施した。

 


踊りや音楽は彼らの世界の中心だった  ▲top

 はぼ同じ時間での同時展開になってしまったので、他の先生方の授業はほとんど観れなかったのだが、わたしの授業の生徒の様子を話すと、およそ2メートルくらいの長机に5人が窮屈そうに座り、小学校3・4年生の合併クラスで42人が受講していた。教室の大きさは明徳高校の嗇通教室の半分程度。だから教室の中はすきまもなかった。その生徒達が全貝、まっすぐな視線でこちらを見つめている。私語はない。ノートを出させて、ロケットのデザインを考えてもらったが、真剣に考え込んでいる。ノートの紙質はかなり薄くぺらぺらだったが、こちらが用意した色船筆で色々なデザインが出来た。おそらく他の授業でも生徒達の様子はおおかた同じだったろう。
 私の授業が終わり築地先生の教室の様子を見ようとしたら、生徒達がきそって敦室の窓に群がっている。笛の音も微かに聞こえてくる。へんだなと思い、覗いてみるとそこで展開していたのは演芸というか、技芸会と言えばいいのか、生徒達が次々と代わり合って、順番に歌や踊りを披露している。リンモクシヤの先生が先頭に立って生徒を指名して、多少渋る生徒もいたが、指名されると物怖じせず黒板の前で歌い始めるのだ。
 築地先生の授業はデッサンのはずだが、いつの間にか主役は生徒で、観衆も生徒たちでものすごい人数の生徒たちが演技を見守っている。音響設備など無論ないわけで、マイクなし、BGMなしだ。踊りや歌は古典的なものもあれば、ラップ風のものもあり多種多様。中には携帯電話の音楽を流して踊る生徒も現れた。築地先生に聞くとデッサンの授業が終わり横笛でネパールの曲を披露したら、なぜかこのようになってしまったと言う。とにかく日本では考えられない盛り上がり方だった。何故なんだ?と素直に思う。その疑問を通訳のボビタさんにぷつけた。
 「ネパールでは今でも多くのお祭りがあるのよ。特に8月から10月まで祭りが続くわ。雨期と米の収穫時期に集中するの。その度に子どもたちは大人の歌や踊りを何回も間近に観てる。それを自分なりにアレンジして歌うことが出来るの。だから歌や踊りが小さい時から身近に感じているのよ」
 この風景を見ていて西ネパールの田舎は貧しくて、娯楽もなくて、遊ぶ施設もなくて、テレビもなくて、パソコンもなくて、やることもないから歌でも唄っているのかという考えはおそらく筋違いだろう。ここでは踊りが中心であり歌が世界の中心なのである。人と人との繋がりが成立することによって、そして唄う側、聴く側のふたつの存在が成立することによって子供たちや村人たちのコミュニケーションが成立している。
 我々の授業はこの演芸会が終わると同時に終了を迎えた。もっと何回か学校を訪れ、生徒達と話し合ってみたいという気持ちがあったが、村を後にする時閻が迫った。
 

自分たちの魂の忘れもの  ▲top

 今回ディリチョール村を訪れ、彼らネパール山岳農民として考えることは、田畑のために明日の太陽の具合と、ヒマラヤから流れる水量のことのほうが第一の関心事で、テしビが映し出す虚構の世界ではない。少年や少女や冑年たちは生きていくため真剣な表情をし、ディリチョールの老人たちは穏やかな顔をしている。ネパールに来て思うのだが、顔の表情がいい。少年や少女の顔立ちもいいが、特に老人たちの顔の皺が生きてきた年輪のように正確に刻まれている。こんな老い方をしたいとネパールに来て思う。自然と供に生きているわけだから、ヒマラヤに住む山岳民族は「安寧」なのだ。自然に逆らうことは不可能であることは分かっているし、その安寧を獲得するために必要なものは音楽や踊りがあるような気がする。
 西ネバールとは違って首都カトマンズは以前よりずいぶん変わった。12年ぶりのカトマンズだったが、カトマンズはどう変わったと一言で言うと、私なりに考えれば「若者に占拠されていた」である。カトマンズに老人もいるにはいるのだろうがその顔や存在は表には見えない。目立たないのだ。その代わり若者はインド製バイクに乗り、クラクションを鴫らし続けて走り回っている。若い女性はファッションに気を配り、携帯電話に夢中の様子だ。携帯電話は5年前から急速に普及した。家にある固定電話より安いシステムになっているため普及に時間はかからなかったという。
 以前は中古でガタガタの日本のトヨタカローラが主流を占めていたが、その面影はすでにない。時々トヨタの高級車レクサスやペンツさえ見かけた。時代の成り行きなのだろう。富を得ればレクサスであり、中流層はインドで使い古された中古のインド製スズキアルトだ。その明暗がはっきりしていた。都市郎と田舎の経済格差は中国の沿海部と内陸部の格差と何か似ている。
 ネパールだけの話ではないが、アジアの多くの国はまだ基本的に貧しい。特に日本からネパールに来ると特にそれを実感できる。しかしその貧しさは金銭のやりくりとしての経済格差であって、アジアに住む人達の価値観や生き方、精神的なものは、いつの間にか私たちのほうが実ははるかに貧しくなってしまった。だからネパールに来て、いつも思うのは自分自身に「魂の忘れもの」があると感じることだ。
 

2011年のネパールの政治空白
  出稼ぎで海外に出る若者たち  ▲top

 旅行の帰り迫、カトマンズからバンコクまでの機内の旅客を観て驚いたことがある。棄っている乗客がほとんどネパールの若者たちで席が埋まっている。しかもすべて男たちだった。どう見ても観光に行く様子などではない。出稼ぎに行くのだとすぐ分かった。よく見ると十代の前半ではないかと思われる男子も含まれている。この様子が今のネパールを象徴している。多年にわたる政治的混乱と政治空白で、観光客は激減。1990年当時は年間50万人近い観光客がいたにもかかわらず、今は年間15万人に留まっている。ずっと観光業で瀾っていたはずのネパール。しかし今は、多くの出稼ぎ者を生み出す。日本でもネパール人が経宮するインド料理屋が増えているが、ネパール人の多くの若者は買金の高い中東カタールあたりに行くという。今年はネパール観光年2011と銘打って観光客を誘致する年なのだが皮肉な現実だ。
 ネパールの政治的混乱とは1996年に始まるネパール共産党毛沢東派(マオイスト)の人民戦争からだろう。内戦状態だったと言っても良い。政府とマオイストの間で多くの犠牲者を出した。
 2001年にはネパール王族殺害事件があり、あろうことか皇太子が当時の国王、王妃を含めて10名を銃で乱射して、その場で皇太子も自害するという大事件が起きた。なぜそのような事態が起きたかは皇太子自身が亡くなっているので真相は不明だが、国王は親中派、皇太子には背後にインド・米国がいたとされている。北に中国、南にインドという大国に挟まれたネバールの栓抱がここにはある。国王の弟がその後、国王に即位したわけだが、この弟が事件当時なぜか避暑地のポカラにいて難を逃れ、その親族も無事であったことから、親インド派だった弟に嫌疑がかかり、国民の信頼を失った。この弟、名前をギャネンドラというが結局、国民の信頼を得る事が出来ず、2008年には国王が退位して、240年続いた王政に終止符を打つ。
 ネパールだけの話ではないが、アジアの多くの国はまだ基本的に貧しい。特に日本からネパールに来ると特にそれを実感できる。しかしその貧しさは金銭のやりくりとしての経済格差であって、アジアに住む人達の価値観や生き方、精神的なものは、いつの間にか私たちのほうが実ははるかに貧しくなってしまった。だからネパールに来て、いつも思うのは自分自身に「魂の忘れもの」があると感じることだ。


 その後マオイストがネパール西部の農民の力を得て、選挙で政権の中枢に入るが、過半敗には及ばず連立政権を目指したが、マオイストの息がかかった首相は交代を繰り返して体制は不安定なままだ。2011年8月にインド名門ネール大学で博士号を取得したエリートのパタライ氏が新しく首相に就任したばかりだが、彼もマオイストきってのイデオローグだった人物である。
 カトマンズに到着した日に散歩で旧王宮を訪ねた。その時ネパール人から突然流暢な日本語で声をかける人物がいた。その中年男性の彼はこんな事を話した。「君は日本人かい?そうか。私は日本に13年間、千葉県の四街道に住み着いて日本で必死に働いた。今のネパールの現況を話すと、政治のお陰でネパールはおかしくなっている。日本から帰ってきてそれをすごく感じている。何かがおかしい。特に感じるのはネパールの若者たちだ。どんどん悪くなっている。青年たちが変わったのは結局大人が悪いわけだけど…。今政治に対してはまったくネパール市民は政治家などに期待などしていない。何と言ってもリーダーがいないのだから。ある意味政治家も可哀想だと言えるかも知れない。
 ネパールはどんどんおかしい状態になっている中、それを救いたいと思っていたら、最近チベット密教に出会った。この宗教は今のネパールにとってスゴい大事な考え方だし、今のネバールには必要な考え方だと思っている。だから毎日寺院に通い勉強している」と。
 この13年間を日本で暮らした年数はネパールの内戦とほぼ一致する。彼はおそらく内戦中は帰国を断念し、その内戦が下火を迎えての帰国だったのだろう。そう考えると内戦前と内戦後のネパールの状態を彼は冷静に分析出来る立場だったと思われる。だからこそネパール青年層の変化を身近に感じたのだろう。それだけネパールは今、病んでいるのだ。
 

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